労働人口の減少が避けられない日本において、一人一人の働き方をめぐる議論が活発に行われる昨今。
副業解禁論も手ではあるが、フリーランスという働き方にもフォーカスが当たっている。
その背景には人工知能=AIの進化がもたらす産業構造の変化が、フリーランスとしての働き方を必要としている。
多くの定形的な作業がAIに変わってゆくという事を否定する者は少ない。
いわゆるロボットに代替えされて行く。
事業変化のスピードの増す中、人間には機械にはできないような、知的創造性の発揮を求められる。
逆の言葉を使えば、「知的創造性」のない人間は必要ないと、判断されるかも。
また、派遣労働が当たり前となった雇用携帯・起業の考え方がこのフリーランスという言葉を上手く使うとも言える。
契約社員=フリーランス。
こう考えた場合は、内部で育成の費用もかからないし、不用になったら契約解除も簡単。
最新のスキルを身につけた人間をお金で拘束すれば良いという事になる。
しかし、この手の話しのオチは・・・。
フリーランスが増えると、プロが減る ?
若い世代にこう聞いてみる。
「この仕事どの位やられているのですか?」と。
「はい、五年もやっています」と胸を張る人がいる。
別に悪い答ではないが古い世代にとっては、「たった五年で胸張ってるな」という考えもある。
時間だけが問題ではないし、濃密な時間を過ごしたのなら良いとも言える。
また潜在的に兼ね備えているスキルの高い人間なら、五年で十分かもしれない。
しかし、評価するのは外部の人となる。
外部の人間は時間軸を大切にする。
いわゆる経験・実体験に重きを置く。
しかし、AIはもちろんの事、ネット関連の仕事にはそもそも歴史という時間が、たかだか20年ちょっとである。
先日NHKで放送していた「黒潮でのカツオ漁」は、弥生時代から行われていたと言う。
釣り針に銛やカツオの骨・マグロの骨が発掘されており、裏付けされている。
それには、もの凄い時間というものが存在する。
しかし、イノベーションというものに伴う、仕事の経験という概念で考えると、五年で十分とも解釈できる。
ウェブでもプログラムでも、一日10時間位五年もやっていれば、かなりのスキルは身につく。
よって、これから必要な「知的創造性」というカテゴリーの中で生きて行く、必要とされる者には、この時間という言葉も重要でなくなるのだろう。
が、しかし、プロという者はその道=その仕事で一人前に食って行ける者をプロと言う。
バイトや仕事を掛け持ちしている者は、世の中ではプロとは言わない。
ゆえにこのフリーランスという立場にある者に、激しい格差が生まれる。
また、その部分を「企業・雇う側に利用される」リスクも広がる。
発注する金額自体が安くなり、それが業界全体に影響を与える事にもなりかねない。
フリーランスで食ってゆける、フリーランスのプロの存在が危ぶまれる。
また、フリーランスで仕事が仕切れなくなるほどの、人気とスキルを兼ね備えた者の中には、企業化を考え仕事の幅と仕事の質を向上させようと、考える者が出てくるのは必然であり人情。
また、将来のためにと保身という考えも働くのが、人とも言える。
フリーランスと言わず、職人と言ったらよいのかも ?
フリーターの事を揶揄した言葉で、プ―タロ―と言っている者もいた。
変に通り名を拵える事による弊害。
ならば、トラディショナルな表現で、「プロクラム職人」「サイト職人」「マーケティング屋」みたいに名乗ったらいかがだろう ?
個人経営の左官屋さんや、鳶職人さんみたいなイメージを外部が持つことによって、日当ではなく、「この仕事のこの基礎の部分は〇〇鳶店が全て仕切る」。
ゆえに、これだけの料金という契約が相場です。
とね。
そうしないと、クラウ○ワークスやラン○ーズの現場みたいになってしまう。
リアルな現場もそうなってしまったら、フリーランスという言葉そのものが、
憧れ・新しい働き方・フリーダムという言葉の真反対となってしまう。
やはり、世の中を生きて、生き抜くのに、”気まま” はないのかもしれない。