レンタルスタジオ「レガージエ」のお得意様カテゴリーNO,1は、やはりダンス利用。
よって本日は、少しフォーカスの当て方を変えての「ダンス」のお話し。
母親の子育てには、歌と踊りがある
我が子を抱き、静かに見つめ歌を歌う母。
まさにマリア様か観世音菩薩とも表現できますね。
誰に教わった訳でもなく、子供を産み育てる母は歌を歌う。
では、パパ・父親はどうなのであろうか?
わたくしもそこそこの時間生きて、またパパも一応やっておりますが、我が子を抱きながら歌を歌った事があったかと考えると、・・・。
もちろん子供が歌を歌い、そこに参加するような事はあったが、赤ちゃんの頃の我が子を見つめ歌を歌った事はなかったと思います。
父親は歌を歌わない・父親は踊りを踊らない
だから育児に父親を参加させるのは、必要最低限がベストと言うその筋の専門家もいる。
育メンとか言われる昨今、少し状況が変わるのか?それとも・・・。
母であろうが、父であろうが、子供を愛する気持ちには変わらないのだが、思考・表現の仕方は、やはり違う。
子供を抱いた母親は、満たされ・報われ、至福の瞬間を迎えた時に歌い出すのであろうか ?
父親は、見守るのであろうか ? それとも新たな決意をするのであろうか ?
私には真意はわからないが、母は子供のために歌う事だけは間違いなさそう。
子供は歌い・踊り出すプログラムを持っている
会話にならない言語しか発しないのに、子供は歌いだす。
きちんと地面に踏ん張れないのに、踊り出す子供。
誰に習った訳でもないのに、子供は歌い・踊り出す。
ケラケラ楽しそうに。
大人なら自己顕示欲で踊り、称賛を浴びエクスタシーを感じるという事もあるが、子供達はただたんに歌い踊る。
まさに、そうプログラムされているしか思えない現象。
身体・言語がおぼつかなくとも、歌と踊りでその”気”を表現したい・するのであろう。
◊何故、人は踊るのであろうか ?
その筋の専門家は、求愛・宗教・コミュニケーションのための表現手法として、人は踊る。
ダンスをすると言う。
また、表現し・喝采をうけ・自己完結し、エクスタシーを感じる。
とも言う者もいる。
至極もっともで納得できる。
しかし、その向こう側にもっと奥があると感じる。
瞬間は、言葉では表現できない?
本当にうれしい時・感無量の時。
本当に悲しみ・辛さを受けた時。
まさに、青天の霹靂を味わった時に、その表現を言葉でするのは無理がある。
上滑りするか、野暮ったくなるか、安っぽくもなる。
言語には限界があるのかもしれない。
どんなに頭が良く・IQが高く、ディベートが達者でも、テクニカルな部分で勝負をしている人間の言葉は、魂に響かないし、内臓も揺れない。
しかし、真の”気”を含んだ目で見つめられたら、言葉がなくとも内臓は揺れ、魂に響く。
やはり、一瞬は言葉で表現できないのであろう。
救われ・満たされるから、踊る ?
自分なり思考でダンスを踊り、人を魅了し、称賛を受ける。
まさにエクスタシー。
自己顕示欲という事ではない、官能的な瞬間。
また、これで良い・完璧でやり遂げたという事のない歌と踊りの宇宙。
いつも瞬間を受け入れ、表現する身・心。
ゴールなき歌と踊りの宇宙。
いや、これが正解という事のない歌と踊りの世界。
とも表現した方が良いのか?
正直、わたしには断言できない。
何故、人は歌い・踊るのか? その向こう側とはなにか?
このテーマの答は、等レンタルスタジオ「レガージエ」で歌い・踊っている方を見て・感じ答を出そう、といたします。
魂に響き、内臓が揺れる瞬間が私に訪れた時、その答は明確になるのだと、そう想います。
しかし、歌い・踊る子供を見ていると、歌いたいから歌い・踊りたいから踊るだけ、なのであろうと感じます。
その単純なアクションが、私の内臓を揺さぶり、魂に響く瞬間なのは間違いないかと、感じます。
では、また。